先日、実家に帰ったときのことです。
母がスマホを片手に、眉間にしわを寄せていました。
「これ、どこ押したらええの?」
画面を覗くと、LINEの通知がずらっと並んでいて、その中から家族のグループを探せずにいるようでした。
私は何も考えず、こう言いました。
「ここやで、この緑のやつ。いつも使ってるやん」
その瞬間、母がぽつりと言ったんです。
「いつも使ってるって言われても、何がどうなってるんか、わからへんねん」
この一言が、妙に胸に残りました。
「見ればわかる」は、誰の「わかる」?
私はこれまで、スマホの操作を「見ればわかるもの」だと思って生きてきました。
アイコンを見て、直感で触って、間違えたら戻る。それが自然にできるから、便利だと感じていたわけです。
でも母にとっては、そもそも「どこが押せる場所なのか」が見えていない。
文字なのか、絵なのか、飾りなのか。画面のどこまでが一つのボタンなのか。
私が当たり前に読み取っているルールは、実はものすごくたくさんあるのだと、教えながら気づかされました。
- 画面を上から下になぞると、更新される
- 左から右にスワイプすると、戻る
- 長押しすると、メニューが出る
- 三本線のマークは、「他にもいろいろ入ってます」の合図
私にとっては息をするようなことでも、母にとっては初めて聞く外国語のルールでした。
教える側も、実は「教え方」を知らなかった
もう一つ気づいたのは、私自身の説明が下手だったことです。
「ここ押して」「そのあと次へ」「あ、違う違う、その上」
こんな指示を出しながら、母のスマホを横から取ってしまいそうになる自分がいました。
早く終わらせたい気持ちが、どこかにあったんだと思います。
「やったほうが早いから」と、つい代わりに操作してしまう。
でもそれは、母にとって「便利になった」ことには、まったくなっていませんでした。
結局、私が代わりにやってしまったら、次に同じ場面が来たとき、また母は困るんです。
便利を渡したつもりが、実は「頼らないとできない状態」を続けさせていただけかもしれません。
便利の「入り口」に立てない人もいる
世の中はどんどん便利になっています。
病院の予約も、役所の手続きも、お店の注文も、スマホ一つで済むようになってきました。
でも、その便利の入り口にそもそも立てない人も、たしかにいます。
母のように「操作が不安」な人。「間違えて何か変なことになったらどうしよう」と怖がる人。
そういう人にとっては、便利が増えるほど、紙や電話や窓口が減るほど、むしろ不便になっていく面もあるんですよね。
便利は、使える人にとっては本当にありがたいもの。
ただ、「使える人が前提」で作られていくと、置いていかれる人が静かに増えていく。
親にスマホを教えながら、そんなことを考えていました。
母が教えてくれたこと
ひとしきり格闘したあと、母が自分でLINEを開いて、孫の写真にスタンプを返せたんです。
そのときの母の顔は、ちょっとした小さなガッツポーズみたいでした。
「できた! これ、おもろいな」
その一言を聞いて、私はハッとしました。
便利って、「楽になること」だけじゃなくて、「できた、と思えること」でもあるんだなと。
私が思う便利は、速くて、簡単で、考えなくていいもの。
でも母が感じた便利は、ゆっくりでも自分で届いた、という手応えのほうにありました。
便利は誰のためにあるのか
最初の問いに戻ります。
便利は、誰のためにあるのか。
たぶん、作る人のためでも、使いこなせる人のためだけでもなくて、「使ってみようかな」と思った人が、安心して一歩目を踏み出せるためにあるのだと思います。
そう考えると、私たちにできることもあるのかもしれません。
たとえば、家族に教えるときは、先回りして取り上げずに、隣でゆっくり待ってみる。
わからないことを「そんなことも?」と言わず、「最初はわからんよな」と受け止める。
それだけでも、便利の入り口は少し広がる気がします。
次に実家へ帰ったときは、母のペースで、もう少しゆっくり付き合ってみようと思っています。
あなたの身近にも、「便利」の前で立ち止まっている人はいませんか?
もしいたら、ぜひ隣に座って、一緒に画面を眺めてみてください。そこには、自分では気づけなかった「便利の景色」が広がっているかもしれません。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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